こんにちは。
株式会社エス・スリーのスタッフです。
「九徳」という言葉を耳にしたことがある方もいらっしゃると思います。
九徳は、
尚書(五経のうちの書経の別名)の「皇陶謨編」にもあり、行為に現れる九つの徳目を、舜帝の臣・皐陶(こうよう)が舜帝の面前で語ったもの
です。(出典:山本七平:人望の研究、以後「出典元」と記載)
出典元によると、
戦前の日本の知識階級の必読本であったとされる「近思録」には「九徳最も好まし」とされています。
明治時代、日本の使節団が諸外国を訪問したときにそれなりの尊敬を集めたのは、使節になるような当時の知識人たちが幼いころから近思録を叩き込まれて育っており、人格が優れていたという背景もあるそうです。
早速九徳を見てみましょう。
一、寛にして栗(寛大だが、しまりがある)
二、柔にして立(柔和だが、事が処理できる)
三、愿にして恭(まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない)
四、乱にして敬(事を収める能力があるが、慎み深い)
五、擾にして毅(おとなしいが、内が強い)
六、直にして温(正直・率直だが温和)
七、簡にして簾(おおまかだが、しっかりしている)
八、剛にして塞(剛健だが、内も充実)
九、彊にして義(剛勇だが、義しい)
本日は、一の「「寛にして栗」について考えてみます。
「しまりがある」というのが少し漠然としている気がするので「栗」の意味を調べてみました。
「きびしい。いかめしい。かたい」という意味があるようです。
ここは、九徳が指導者層に説かれていたことを踏まえて、いかめしい、つまり、威厳があると考えてみます。
威厳というのもなかなか具体的なイメージをつかむのは難しいですが、
「その人の言うことなら聞かなくてはいけない、と感じさせるような重々しさ」
と考えてみます。
すると、「威厳が無い」は「この人の言うことは聞かなくても良いだろうと思えてしまう、うすっぺらな印象」になるでしょうか。
また、九徳すべてに共通ですが、●●だが、□□という形式なので、1つの分で2つの特性を表現しています。
なので、「寛にして栗」を満たしていない状態は3種類考えられます。
A.寛大だが、威厳もない(多くの人を受け入れる寛大さはあるが、言うことにうすっぺらな軽さがある人)
B.狭量だが、威厳はある(度量が狭いが、そのような命令でも聞かないといけないと思わせられる重々しさがある人)
C.狭量なうえ、威厳もない(度量が狭く、さらに発言にうすっぺらな軽さがある人)
ここで学校の先生をイメージしてみると、
Aは生徒にややなめられつつも多分好かれる先生となりそうな気がします。
Bは自分の価値観を外れた生徒には厳しくあたる怖い先生で、クラスの運営はしっかり出来そうです。評価も高いのではないでしょうか。ただし考えが合わない生徒がいると不登校の生徒が発生しそうです。
Cは考えが狭いうえに生徒に言うことを聞かせることもできず、学級崩壊へと一直線に向かいそうです。先生には向いていないかもしれません。
このように具体的に考えてみると良く分かるのですが、AとBは普通に暮らしていくことはできる人です。
Cも先生は難しいですが、人に命令しない立場の一人の労働者としては普通に生きていけると思います。
世の中の多くの人がAかB、またはCで、やはり「寛にして栗」を満たしている人はまれなのだと思わされます。
出典元によると、近思録ではこの九徳を身に付けるにあたり、
まず暗記して常日頃から実践していくと心から離れないようになり、どんな状況でも立ち居振る舞いが礼にかない、邪心が起こらなくなる、と言っています。
九徳を身に付けることは難しいかもしれませんが、生涯学習の一環として、一つ一つでも意識して生活していくのも良いかもしれません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。