こんにちは。
株式会社エス・スリーのスタッフです。
九徳について今まで3つ記事を書いています。
①寛にして栗
②柔にして立
③愿にして恭
本日は4番目の「乱にして敬」を取り上げます。
四、乱にして敬(事を治める能力があるが、慎み深い)
これは、「乱」がどうして「事を治める能力がある」という意味なのか少し納得いかない気持ちがあります。
漢字ペディアによると、出典『角川新字源 改訂新版』(KADOKAWA)を出典として、
旧字は、会意形声。乙(みだれた糸の端)と、(ラン)(みだれた糸を整えおさめるさま)とから成る。「おさめる」意を表す。転じて「みだれる」意に用いる。教育用漢字は省略形の俗字による。
とあります。
おさめるという意味が本来で、みだれるは後付けということなんですね。
話がそれましたが、今回も「乱にして敬」を満たさない状態を挙げてみましょう。
A.事を治める能力があるが、尊大で高飛車だ
B.事を治める能力が無いが、慎み深い
C.事を治める能力が無いうえ、尊大で高飛車だ
「事を治める」とは、一国の王様であれば国を治めることですが、一般人だとある程度の人数のグループを運営する、と考えてみます。
政治力と言っても良いのかもしれません。
今回はある町の町内会長さんを想定してみます。
Aは、町内のいざこざを上手くまとめてくれて頼りになるが、尊大で偉そう
Bは、町内のみんなの主張をまとめられず、トラブル頻発だが人間的には良い人
Cは、町内のみんなの主張をまとめられず、トラブル頻発な上に尊大で偉そう
このような感じでしょうか。
Aは普通に頼れる町内会長さんだと思います。多少人柄が尊大でも、上手く導いてくれるなら結構ついていく人も多いのではないでしょうか。
ただ、こういう人がスキャンダルに見舞われると人望が無い分一気に周りから人が去りそうです。
BとCは町内がうまく行かなくなるので、少なくとも町内会長さんには向いていないでしょう。
忠実な補佐役が居たら何とかなるのかもしれません。
町内会長で考えた場合は、「事を治める」が重要過ぎて、後半の「敬=慎み深い」の存在感が少し薄いような気もします。
ですが、これは現代の身近な例で筆者が考えたためで、九徳が考えられた時代の王様には「敬」も同じくらい重要だったのかもしれません。
いろいろと考えさせられます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。